No.20 随想 山田輝郎翁の偉業をしのんで
赤堀 四郎
前理事長・顧問/大阪大学名誉教授
故山田輝郎翁に私が初めてお目にかかったのは、昭和49年の秋頃であったと思う。その頃の翁は、ロート製薬の社長をしておられた。
当時私は、関西地区大学セミナーハウス建設の世話を頼まれたが、建設途上で石油ショックにより建築費が急騰したため、資金が大幅に不足し困りきっていた。その時、阪大在任時代の同僚で現在名誉教授の渡辺得之助君から、「ロート製薬の山田社長にお願いしてみたらどうか、私が紹介をするから」と、有難い助言を頂いたのであった。多分、かつて渡辺君の研究室に居られた山田安定君(財団理事)を介して御都合を伺って下さったのであろう。
会って下さるというお約束の日に会社に参上し、応接間に招き入れられると1分も経たないうちに社長さんがお見えになった。背の高い気品のある老紳士であった。
早速セイナーハウス建設の実情を申し上げて、御援助をお願いした。すると社長さんは、「わかりました。どのくらい寄附したらよいのですか」と単刀直入の御質問である。それで御参考までにと、その10日程前に同じく家庭薬のS製薬から申込みのあった額を申し上げると、「S製薬がそれならば、うちはこれだけにしましょう」と、即座にその倍額の御寄付を決めて下さったのであった。それまでに何人かの社長さんにお願いしたことはあったが、社長さん御自身で金額まではっきり決めて下さったのは初めてであった。びっくりすると同時に嬉しい感激がこみ上げてきた。「有難うございます」と御礼を申し上げたが後の言葉が続かず、「これで助かります。有難うございます」ともう一度御礼を申し上げただけで辞去したのであった。
実を言うと、うかつな私はその時までロート製薬の山田輝郎翁が、私費で山田スイミングクラブを開設して多数の女子名選手を育成された「山田さん」と同じ人であることを知らなかったのである。しかし、その日の会見からの帰途、今日お目にかかった社長さんが、もしかしたらスイミングクラブをつくられた山田さんと同じ人ではないだろうかと思った。翌日水泳のことに詳しいセミナーハウスの事務局長に尋ねると、「先生はそれを今まで知らなかったのですか」と笑われてしまった。やはりそうであったかと改めて感銘を深くしたのである。
昭和47年のミュンヘンオリンピックで、山田スイミングクラブの青木まゆみさんが、日本の女性として37年振りに金メダルを得た。素晴らしい成功であった。
それにもかかわらず山田翁は、「これで目的は達成された」と言われて、クラブを解散されたと聞かされていた。事業が失敗したからやめるということならば普通のことである。成功したからやめるというようなことは、余程の熟慮と断行の人でなければ出来ないことである。
その後3年間、山田翁は次の目標について熟考されたのではなかろうか。そして昭和52年、山田翁は私財30億円を投じて、目標を基礎自然科学の振興に向けられたのである。
しばしば批判されているように、日本の製造技術は最近急速に進歩しているが、その技術の基礎になっている原理のほとんどは、西欧の学者によって見い出されたものである。日本の科学技術は“切り花”と言われる所以である。これでは日本の将来が心配だと考えられたのが山田科学振興財団をつくられた動機であろうと思われる。
昭和52年2月に財団が発足して以来、過去5年間にすでに数百人に達する基礎科学研究者に対し、研究費の援助並びに国際交流に対する旅費の援助がなされている。その成果は次第に現れつつあると信ずる。
財団の発足に際して山田翁が私共に示された基礎的方針の中に“点試汎行”という言葉がある。その意味について翁は、次の様に述べておられる。「私立の財団には規模は小さくても未知の分野に大胆に賭ける――いわば“点試”の役割を期待し、有望とわかれば汎行的助成を国にお願いする。これが公私の性質上最も有効な役割分担でしょう」。これこそ日本の科学振興方策に関する最も適切な指針である。ただその指針にそい得る研究者と研究課題を併せて判断することは、本財団として困難だと思われたので、あらかじめ権威ある学会にお願いして候補者を推薦して頂き、その中から当財団の趣旨に最もよくそった課題と研究者を財団で委嘱した委員の方々に選んで頂く手続きをとって来たのである。ただこのような方法だけで本会の目的に十分そうかどうかは、私共は多少疑問に思っていたのである。
ところが一昨年の秋頃であったろうか、本財団の江崎玲於奈理事より全く新しい提案がなされた。それは、現在の電子工学で半導体の基礎研究は最も重要な研究課題である。この研究を推進するには、種々の金属を高度の真空下で蒸着させるMBE(Molecular Beam Epitaxy)と呼ばれている装置が不可欠である。しかしこの装置は極めて高価で、また日本では良いものが出来ない。そこで信用のおける外国の専門メーカーの製品を財団で1基輸入して、関西地区の半導体研究者の共同利用に供するというユニークな提案である。ただしこの装置の価格は、本財団の1年分の援助総予算に匹敵するものであった。
それは困ったと我々は頭をかかえた。その他にそのMBEをどこに設置するか、管理体制をどうするか、指導者は誰にするのかなど、解決しなければならない種々の問題があった。これらの問題を解決するために永宮理事長、江崎、山田両理事と小川専務理事の4人が、約半年を費やし慎重に検討された結果、次のような方針が決められた。
(1) MBE購入費は、山田輝郎翁にお願いして特別に御寄付を頂く。(この様な特別な御寄付を山田翁にまたお願いするのは、はなはだ厚かましいとは
思ったが、御快諾下さった由で何と感謝申し上げてよいかわからない)
(2) 年間維持費は財団の経常費で負担する。
(3) 設置場所は、永宮理事長のお骨折りで関西学院大学に最近建設された研究棟の一室を提供してもらう。
(4) 研究指導は、江崎理事に関西学院大学の客員教授となって頂き、日本へ帰国される度ごとに指導して頂く。
(5) 管理運営は、関西学院大学理事部長を中心に学の内外から構成される委員会が行う。
この様な新しい研究体制が関係者の承認を得、最新鋭のMBEを既にフランスの専門メーカーに発注済みで、今年の秋には到着の予定である。この私学の研究室を拠点とした新しい研究体制が出現しようとする気運が生まれたことは、正に山田翁の期待された新たな“点試”としての役割を果たしてくれるものと信ずる。
それにしてもフランスから輸入される新鋭のMBEを、山田翁にも御覧頂きたかったのであるが、それが出来ず誠に残念の極みである。今はそのMBEが無事日本に到着し、予定の場所に設置され、独創的な研究成果が挙げられ、山田輝郎翁の御霊前に報告される日を待つのみである。
記念誌「山田科学振興財団の10年」(昭和62年(1987年)2月1日発刊)より