No.1 財団設立の頃

昭和56年(1981年)7月15日
山田 安定
理事/大阪大学基礎工学部教授
(現評議員)

反骨精神
 山田科学振興財団のルーツを辿れば、 恐らく父山田輝郎が、「私財を社会に還元し、何か世の中のためになることをしたい。何かよい案はないだろうか」という相談を私を含めて周囲にかけていた十数年前に遡ることになります。種々の案が提案された中でやがて「自然科学の振興を目的とする財団の設立」という方向が徐々に浮き彫りにされて来たいきさつは、今となっては正確に思い出すことはできませんが、当時私は父と「権威に頼りたがる日本人の性癖と、論理を尊ぶ精神の振興の必要性」について話し合った覚えがあります。話題の内容は直接自然科学に関したことではなく、むしろ商売に関係した広告政策のことでした。戦後やっと民間ラジオ放送が発足した当時、広告界のオーソリティの一般的な「説」は、視覚に訴える新聞広告等があくまで主たる広告媒体であり、聴覚を媒介とするラジオ広告は従とする、というものであり多くの企業はその「常識」に従って広告費の配分投入を行っていたのを、父はこの権威筋の説に頼らず自身の分析と判断を基礎としてこの比率を逆転し、結局は従来の説がそれ程根拠のない神話に過ぎないことを実証したという昔話ですが、このような一種の反権威主義、反骨精神は、正に近代自然科学の発展の基礎をなした精神と相通ずるものであることは明らかであり、父のこのような性向が、特に自然科学の振興という目的に一つの明確な焦点を見出したのかも知れません。
 こうして、科学振興財団を設立すること、基金を30億円とすることなどの大まかなことが決ったのは昭和50年秋であったと思います。当時たまたま私は在米中であったので、公益法人設立の許認可に関する事務手続きなど、実施に移すための諸事項については、末弟山田安広(当時ロート製薬株式会社常務取締役)がわざわざ社内にプロジェクトチームを編成して精力的に取組んでくれました。その時のチームリーダーであった河野治道氏は、後に初代の事務長として財団の運営のために大きな推進力となってくれることになりました。

支持して支配せず
 この段階で、 父との話し合いを通じて次の立場を明確にしました。「私は学問の世界のことはわからないから、運営については信頼できる先生方にすべてをお任せしたい」これが当時私と財団について話し合うたびに父が口ぐせのように繰返した言葉でした。これは公益法人の基金出資者として当然の心構えであるとはいえ、財団設立と相ならぶ父の「社会事業」としてしばしば引き合いに出される山田スイミングクラブでの父の姿勢を身近にいてよく知っていた私には、極めて印象的なものと受け取れました。山田スイミングクラブは「父の」事業でありました。それ故に水泳については、同様に全くの素人でありながら、それこそ例の反権威主義を充分に発揮して、多くの点で常識を破った手法を自ら次々と案出し、それによってよく知られた成果を収めた実績を持っていたわけです。「学問のことは全然わからないから……」という父の言葉の中に私はむしろ、何人にもコントロールされぬ自由な精神こそが学問の生命であるということに対する透徹した洞察を感じました。“support but not control” これが出資者の財団運営に対する立場を最も端的に示すものと考えて、その後折に触れてくり返し強調したのであります。これ以後は、父は発起人として準備段階から参画をお願いする先生方の選任を含めて、すべての作業を研究者の端くれとしての私に一任しました。只一点、多分阪大総長時代からいろいろの関係で父がよく存じ上げていた赤堀四郎先生を是非発起人のお一人にお願いすることについては示唆を受けたように思います。

「独断と偏見」と「点試汎行」
 私が、今から思えば甚だ生硬なふくらみのない趣意書案を起草し、これを持って江崎玲於奈先生にお会いしたのは昭和51年夏、 IBMフェローの集りをかねて上京した時でした。前年私はIBMワトソン研究所に滞在し、その際先生の卓抜な学問上の識見に加えて、大きな観点から物事をとらえられる構想力、更に魅力あるお人柄に惹かれ、財団設立の際は是非先生にお力添えを願おうというのは、かねてからの計画であったからです。幸いに先生は趣意に直ちに御賛同下さり全面的な協力を約して下さいましたが、それに止らず帰米後趣意書案の改訂について長文のお手紙を戴きました。現在の趣意書の荒削りながら逞しい筆致は江崎先生の手になる所から来ているのであります。
 一方、この頃には設立申請の手続き上のことを含めて、文部省研究助成課の方々にはずいぶん懇切な指導、助言を戴きました。殊に当時研究助成課長をしておられた手塚晃氏には、単なる事務上の問題を越えて、研究援助というものの在り方について、いろいろと考えさせられる有益なお話を伺いました。殊に忘れられないのは、サイエンス誌編集長の餌取章男氏の取材に応ずるという形で持たれた、江崎、手塚両先生、それに私の三者インターヴューであります。この時私共の間でしきりに取り交わされた言葉が「独断と偏見」でありました。山田財団は当時私立の財団としては屈指の大財団になろうとしていたわけですが、国全体の研究助成の規模から見れば微々たるもので、大部分は各省庁、学術振興会などの公的機関に負うている訳であり、その情況の中で山田財団がどのような役割を受けもつのが最も有効であるのかという議論がなされ、「国民の付託を受けて運営される公的機関としては、その性格上いわゆるムダ金を費うリスクは避けなければならない立場にある。一方、私立財団には当事者が自らの責任と判断において、一定のリスクと、結果として得られるかも知れぬ効果を天稀にかけて、 リスクを冒して賭ける自由が許されている。そして賭けの結果、これは有望となれば後は国の大規模な助成に待つことも出来る」そのような話の中で、多少のユーモァを交えて、私立財団は須く「独断と偏見」をもって援助事業に当るべきであるという議論に花が咲いたわけです。
 ところでそのような論脈を辿る中で、私の脳裡には全く無関係と思っていた別の言葉が徐々に記憶に蘇り、やがてふたつの言葉が丁度カメラのファインダーの中のピント合わせのように、びしゃりと重なり合って明確な映像を作り出しました。それは父が事業経営戦略上のモットーとして用い、折に触れて私に聞かせてくれた言葉で(恐らくいかなる出典もない造語であろうと思いますが)「点試汎行」というものです。「経営上の新政策を実行する際にひとまず地域的に、あるいは時間的に限られた領域で試行を行い、それが有効であると見極めがついたところで、思い切って大規模に実行する」という意味に解釈できますが、これを当面の問題に当て嵌めれば、私立財団の役割は正に最初のブレイクスルーをもたらす「点試」の部分であり、大規模な「汎行」は国の助成に待つ、ということではあるまいか。この様に感じた時から私には自分として財団運営に取組む一つのはっきりした視点を得たように思います。

チープ ビューロー
 同じ頃、元日本学術振興会会長の吉識雅夫先生を科学技術庁にお訪ねして御教示を賜ったことも、後の財団の運営に大きな影響を及ぼしました。吉識先生は財団事務局の軽量化と効率化について、いかにこの種の財団の事務機構が膨張しやすいか、その結果としていかに「財団運営のための財団」の危機に陥りやすいかを指摘され、この点についての特別の配慮を示唆されました。最近しきりに叫ばれているチープガバーンメントの声をきくにつけても、吉識先生の御指摘の正しさをあらためて認識するのですが、幸いにしてこの点は後に専務理事小川俊太郎先生によって、現在のぜい肉のない効率的な事務機構となって具体化されました。それだけにこれを支える事務局メンバーの不断の努力はまことに賞するに値いするものであるわけです。又この点に関連して、事務所の設営をはじめ、人事面でも種々の便宜を計って戴いたロート製薬株式会社の首脳陣の理解ある御支援も忘れることが出来ません。

2IO精神
 設立準備の最後のハイライトは昭和52年2月大阪ロイヤルホテルで開かれた発起人会でありました。以前から既にこの計画に御賛同いただいて個別に種々御援助をいただいていた、赤堀四郎、江崎玲於奈、小川俊太郎、永宮健夫、仁田勇の諸先生がこの日一堂に会して、財団設立の事をきめられ、又運営の基本方針を論ぜられたわけであります。私は父の代理として出席していたのですが、日本の斯界の「顔」とでもいうべき方々がこのように一堂に会されたということ自体、一つの壮観であると感じられ、ある種の興奮と感動をおさえ切れませんでした。果して諸先生方は論談風発、議論はいつ果てるとも知れぬ程となりましたが、この時の結論は財団の寄附行為に明文化されているように、当財団の目的を「自然科学の基礎分野の振興」とすること、これを支える3本の柱として、創造性(O)、国際性(I)、学際性(I)を立てることにまとめられました。前2者にくらべて、学際性の重視については多少の註釈が必要かも知れません。今迄の確立された学問分野の谷間のような所に、今後の新しい発展の萌芽を見出せるであろうということに加えて、当財団設立の趣旨からして学際性を特に重視すべきであることを指摘されたのは江崎先生であったと思います。つまり既存のエスタブリッシュされた権威を持たない新しい学問分野の萌芽は、ややもすれば取捨選択の過程で不利な処遇を受ける危険性があるわけで、反権威の精神を標傍する当財団としては、特にこれら既存の権威を持たない領域を育成することに意を用いるべきであるということであったと思います。
 発起人会の議論もようやくたけなわを過ぎた頃、私はふと今迄の道程を振り返って、自分が単なる舞台廻しの役割に過ぎぬながら、ともかくも父の委託に応えて山田科学振興財団設立の任務をほぼ果し終えようとしている事にいささかの安堵感を覚え、ロイヤルホテルの最上階の会議室から、遥か下界に宝石を鏤めたように煌めく大阪の街の灯を殊の外美しいと感じたことを思い出します。