No.8 随想 反省の言葉

昭和56年(1981年)7月18日
古谷 雅樹
前選考委員・東京大学理学部教授

 もう二十何年も前のことになるが、私はイエール大学の大学院で3年間勉強する機会があった。今の若い人達には信じ難い話であろうが、当時日本から国外へ持ち出せる外貨の額は確か1人当り僅か50ドルであった。したがって、私のばあいは学費も生活費も、イエール大学のフェローシップですべて支えられた。日本育英会の奨学金は、学部、修士あるいは博士課程という身分で多少の差はあるが、同じ身分の中では均等に支給されているが、イエールの友人たちは一人一人異なる額のフェローシップやアシスタントシップが与えられていた。その額はDirectorが各学生の経済状態から判断して裁量していたようであったが、個人の資産状況がわかる必要資料をconfidentialな扱いで見て判断するので、余り不平は聞こえてこなかった。もし、偽りがあれば社会的淘汰を受ける国柄であったから皆かなり正直に実情を述べているように、私のような外国人には見えた。これは私にとって大きな驚きであったし、同じ金額が随分有効に働らくことを学んだ。
 山田財団からお手伝いをするようにというお話を最初にうけた時、私は長いあいだ忘れていた上記の体験がなぜか心にすぐ浮んだ。それは国費のばあいには難しい自由で効率の高い浄財の運用のお手伝いが、民間の財団では可能ではないかという期待感から生れたように思う。そして、この心の中にあった一種の憧れにも似た感情が、結局は身の程もわきまえず、そのお手伝いを引受ける動機となったように思っている。
 しかし、それから数年を経た現在、先にのべた期待感は小さく萎んでしまった。つまり、山田財団で援助しなければ、それがあり得なかったような援助対象が、この間に果たして幾つあげられるだろうか。これ迄にこの財団から援助を受けられた方々は、いづれもすぐれた素質に恵まれて立派な業績を重ねられた研究者がほとんどであった。勿論、これらの方々は本財団の援助によって、研究の速度は早められたことであろう。しかし、私が申し上げたいのは、これらの方々は当財団がたとえ援助しなくても、国費あるいは他の費用でその研究を進められたに違いないし、その力を持っておられるように見えた場合が少なくなかったということである。国費による科学研究助成金にくらべれば、本財団の予算は2桁も小さく、その小さなパイを各分野のお偉い先生方が集って分けるのであるから、パイの一切れはどう苦心しても、仲々満足の行く大きさにもならなかったように思う。これは審査の問題というよりは、むしろ何にその金を使うべきかというpolicyの問題のように思う。すなわち、貴重な私財を提供された山田氏は、国費でできることを僅か何%か増やすために、この財団を創設されたのであろうか。当財団の基本方針について考える立場にない私が、このようなことを申し上げるのは僭越至極であることは重々承知の上で、敢えて申し上げたいのは「国費でできないことを一つでも援助しよう」という従来とやや違った発想で、この財団が援助対象をえらべないだろうかということである。
 それでは「国費で援助しにくい対象とは何か」というお尋ねを受けることになろう。国家の予算には、法律などによって当然多くの制約をうけるため、欧米の研究費とは違って、実際研究者の立場からみれば大いに困る点や能率の悪い点が無い訳ではない。国費の扱い方の改善を求めるのも必要であるが、そう容易にそれが変えられない以上、私は民間の財団がその役を果せば、両者が相補的に機能して、我が国の科学研究が大いに発展するものと信じている。
 たとえば、国費は原則として単年度予算であるので、総額にはかかわらず、長い年月を要する事業の保障は得られない。これは長い期間継続的に観察や実験が必要な自然現象の研究には、極めて心もとないことである。現に私自身、野生の種子や胞子を永久に生きたまま保存する方法をさがし、その密封された容器内の種子や胞子を国際的に交換するシステムを確立するため、文部省から試験研究を2ヶ年づつ2回いただき、この事業は漸く緒についたところであるが、これから先、百年、千年にわたって、これらの試料をどのように保存維持して行くべきか、正直のところ途方にくれる思いでいる。この類の悩みは、各分野に少なからず存在しているように見えるので、たとえ毎年の額は少なくても、このような援助対象には山田財団が百年継続して援助する道はひらけないものであろうか。個人の寿命を越えて長い年月、地球の変化やそこにある生物の変化を一定の間隔をおいて調べて記録して行く仕事なども、もし援助の可能性が明かにされれば、やがて視野の広いロマンに満ちたプロジェクトが申請されるように思う。
 また、国費の財源は税金であるから、その配分は当然公平であるように努めるべきである。つまり、パイは幾つにも切って配分しなければならないが、山田財団のばあい、もし合意が財団でなされれば、パイを丸ごと何か一つの対象に思い切って与えてもよいのではなかろうか。さらに何年分かのパイをまとめて一つの事業に投入しても良いのではないか、というのが二番目の国費では出来ない例である。つまり、このような金の使い方を考えない限り、奈良の東大寺大仏やヨーロッパの大伽藍に相当するような現代の夢は実現しないのではなかろうか。そのような援助の例の一つとして、私は自然科学の各分野の専門図書館の建設をあげたい。欧米に較べて、日本でいまだ最もおくれているのが図書館の整備であろう。従来国立大学では総合図書館の充実に力を入れて来たのであるが、各研究者にとっては、そこへ行けば、その分野の必要な文献がすべて揃っていることが最も望ましいことは言うまでもない。日本に一つでよいから、そういう図書館が欲しいという想いは年毎につもる一方である。私共の分野について申し上げれば、現在、小石川植物園には徳川幕府の薬園以来300年収集所有して来た図書のほか、明治15年日本植物学会の発足以来、同学会の図書が保管されている。さらに昭和51年には本郷から植物自然史関係の図書が移されたので、その総数は2万冊をこえ、その中には、本草学時代の古書や世界的にも稀な学術書も多数含まれているが、異なる機関に属することもあって、これらが有効に利用される状態とは、ほど遠いのが現状である。しかし、もしこれらの図書を基礎として、植物学に関する古典から現代までのすべての出発物を集めた「植物学専門図書館」を小石川植物園内に建設し、全国的に共同利用できれば、この分野の研究、発展に多大の貢献をすると思われる。このような専門図書館の建設を山田財団が援助すれば、山田専門図書館は末長く世に残り、その意義ははかり知れないほど大きいものと確信している。たとえ、10年に一つづつ建設しても100年後にはほとんどの基礎科学の各分野の専門図書館が我が国に生れることになり、真に我が国の学問の発展を支えることになるのではなかろうか。
 いろいろと勝手なことを申し上げたが、山田科学振興財団が、国家の大計をこえて、人類の大きな夢の一つでも叶えることができるよう将来発展されることを願って、私の反省の言葉と致したい。

記念誌「山田科学振興財団の5年」(昭和57年(1982年)2月1日発刊)より